風のある暮らし

東京から見知らぬ田舎へ。更年期の母ひとり、思春期の子ひとり(中学男子)の暮らし。

心を病んだ母との確執。小学生の私は心のよりどころを失う(2)

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私が小さい頃は優しくて大好きだった母が、父と曾祖母の攻撃でだんだんと心を病み、まるで別人になってしまったというお話の続きです。 

 

どうして母は離婚しなかったのか

私は覚えていないのですが、私が小学生低学年のころに、何度も母にお願いしたそうです。「お母さん、お願いだからお父さんと別れて」と。そんな低学年がいるんですね。 


私がまだ幼かったころは、母は実際に何度も離婚を考えたそうです。ただ、その時代、シングルマザーとして子供2人かかえて生きていくことは今以上にはるかに大変な時代でした。

しかも母には貯金もへそくりも何もありませんでした。3日の家出すら形見を質に入れなければ実現できないような状況で、子供2人連れて逃げることもできません。

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母は、私たちを置いて自分だけ逃げることもしませんでした。離婚もできず、父との生活にも耐えられず、私たちのことも捨てられず。だから自分の心を捨ててしまったのでしょう。

 

母はどうして病院に行かなかったのか

社会人になってから母に聞いたことがあります。どう見ても母は明らかに精神的におかしかったのです。それも10年以上。

 

母もうっすら自分が正常ではないことに気づいていたそうです。でも病院だけには行きたくなかったそうです。

 

なぜか。自分の母親と同じ道と辿りたくなかったから。自分の母親も心を病んで病院に行ったのに最悪な結末に終わった。だから自分はそんなことになりたくないから病院には絶対に行かなかった。

 

なるほど・・・。そう言われると何も言えませんね。

 

今と違って気軽に心療内科に行く時代でもなかったので、ハードルも高いですしね。田舎ですから噂もすぐに広まりますし。

 

母のヒステリックはあの父でも止められず、『お母さんは病気だから』とその間はやりすごしていました。だからといって病院には連れていくことは決してしませんでした。

 

父は立派な役職でしたし。その父の奥さんが、、、なんて表沙汰にできないですしね。私からするともうどっちもどっち。どっちもまともじゃないよ状態でしたが。

 

この世に過去のもしもは存在しない

今さら、じゃあどうだったら良かったんだと言っても過ぎたこと。離婚をしていれば、病院に行っていれば、誰かが幸せになっていたのかと考えるのも意味のないこと。

その時母が選んだ道があって、今の私がいるのだから。だから、その選択しかなかったのです。他に進むべき道はなかったのです。最初から他の選択肢など存在しないのです。全てはなるべくしてなった。ただそれだけなのです。

 

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              子供のリクエストの・・・あなた誰だっけ?

 

期待と裏切りのすえに

けれど、小学生の私にはそんなことは分かりませんでした。どうして?どうして?どうして?の連続でした。

 

乱高下する母の感情のなかで、ほんの一瞬、まともっぽい母が垣間見れるときがあったのです。そのことがより私を混乱させました。子供の私は、その一瞬に期待して、すがって、裏切られて。

 

小学高学年になると、悲しさや寂しさは、しだいに軽蔑と嫌悪に変わりました。もう、どうして?とも思わなくなりました。

 

何度も繰り返された期待と裏切りのなかで、無条件の愛情などこの世には存在しない、とはっきりと悟ったからです。親は味方ではない、と期待することを一切やめたからです。

 

・・・・・あれ?これどうやって終わればいいんだろう・・・また続いてしまいます。