大学入学にともない、私は実家を離れ一人暮らしをすることになりました。
徹底的にストイックに。一切の妥協も例外もない。の父から離れ、私がどうなったかというと、こうなりました。
オールジャンクに走る
今思い出しても身震いするほど、朝昼晩ジャンク。ジャンクジャンク。 18年間飢餓状態だったんでしょうね、ジャンクに。
朝は菓子パン、お昼はコンビニ、夜はバイト先のファミレスのまかない、おやつにポテチとチョコ。もう止められないやめられない状態。今まで食べられなかった卵や乳製品やお肉も集中的に食べる。特に油っこいものをむさぼり食べる。
徹底的にストイックに一切の妥協も例外もなく、私はジャンクの日々におぼれました。
健康志向な食生活を長年送っていたら、ジャンクの味をうけつけなくなる、添加物の味に敏感になる、というような話も聞きますが、私はウェルカム!とばかりに「おいしい~幸せ~」と思って食べていました。そのころから私の味覚は鈍感だったようです。
幸せな気分にひたりながら、このジャンク漬けの日々は続きました。
乱れた食生活の行く末
飢餓状態から一転、飽食状態になって2年。食生活が変われば、体も変わります。
なんと体重が10キロ増えるという事態に。
私はずっとやせ細っていたので、自分を太らない体質だとずっと思っていましたが、どうやらそうではなかったようです。
前の体重がやせすぎなので、10キロ増でも実は標準体重以下ではあったのですが(ケンカ売ってるわけはありません)、私は残念なことに顔に一番に脂肪がつくタイプだったようで、見た目が激変したのです。
前の私を知っている周りからも「痩せろ」「別人」「アンパンマン」とさんざんの言われよう。
それでも自分では「そんなにいうほど太っていない」と、謎のプラス思考でむさぼり食べる食生活をやめられないでいました。
ダイエットにいそしむ
ある日、バイト先でとった写真をもらったときに衝撃をうけました。
誰これ?何これ?
写真の中ではじける笑顔を見せる私。顔が楕円形です。丸じゃなくてもはや楕円形。初めて皆が痩せろと忠告していたわけが分かりました。
自分でも毎日鏡は見ていましたが、鏡で見る自分はニセモノであることをこの時初めて知りました。鏡は自分に都合のいいようにしか見えないんですね。
ジャンクをやめよう。
そう決心してから、ようやく自炊を始めました。魚と野菜中心の食生活です。お昼はおにぎりと鮭とほうれん草のおひたしのお弁当を毎日大学にもっていっていました。夜も同じメニューをバイト先に。
おかしもきっぱり断ちました。お菓子コーナーに行かないこと、見ないこと。忘れること。
揺らぎそうになると、楕円形の顔で笑っている自分の写真をいましめのように見つめて、奮い立たせました。
そんなジャンク断ちから3ヶ月くらいたったでしょうか。体重が5キロ減り、問題の楕円形の顔はでっぱっていた部分がなくなり、痩せすぎでも太りすぎでもないほどよい肉づきになりました。
このことで「自分は太る」ということを認識したので、むさぼり食べることはやめました。
自炊、時々ジャンク。このスタイルに落ち着きました。
怨念、執念を育てる
これはまさにうちの食生活のあり方が影響していると思います。強制と抑圧の上での健康志向な食生活を強いられたことによる反動ですね。
例えばこんなことがありました。
・思い出1
法事で親戚の子供達が集まりました。アイスクリーム屋さんで皆がアイスを買ってもらいます。
「お前たちはだめだよ」と、すかさず父が私と姉に言いました。
私と姉は分かっているので何も言いません。アイスを食べている他の親戚の子供達をただずっと見ているだけでした。
・思い出2
近所のおばあちゃんが私にお菓子をくれようとしました。
「うちはこういうの食べさせないので」父がすかさず言いました。
おばあちゃんは謝っていました。私はそれをただ見ているだけでした。
・思い出3
偏食の親戚の子供を1日だけ預かりました。唐揚げしか絶対食べないというその子のために母は唐揚げを作りました。私たちも食べられるのかなとドキドキしました。
父が帰ってきて唐揚げを作ったことを少し怒りましたが親戚の子供のためなので仕方がないとあきらめたようです。
「これは〇〇のだから、お前たちは食べたらだめだよ」父が期待している私たちにすかさず言いました。
私は何も言わずにいつものおかずを食べました。目の前でおいしそうな唐揚げをほおばっている親戚の子をずっと見ながら。
これらはほんの一部ですが、こうして改めて書くと我ながら怖いですね。まるでホラーです。こういうことの積み重ねが、私の食への怨念というか執念の芽のようなものを育てたんだろうなあとしみじみ思います。
食生活と環境は密接な関係にある
徹底的にストイックに一切の妥協も例外もない食生活をどうしても子供にさせたいなら、そういう食生活しか見えない場所で生活すべきだったのではないでしょうか。
山奥で自給自足するくらいの生活であれば、子供はジャンクの存在を知ることもなく、「食べてみたい」という強い欲求にかられることもなく育つことができるでしょう。
現に、山奥でホームスクーリングで育った子のお母さんは「子供は大きくなるまでポテチの存在もカップラーメンの存在も知らなかった」と言います。
存在を知っていて食べたいのに食べられない状態で育った場合とは、大きくなってジャンクに出会ったときの反応は違ってくると思います。間違っても、私のようにジャンクをむさぼり食べるようなことはないでしょう。
徹底的にやりたいなら、親は環境も変える覚悟でやってほしいものです。環境を変えられないなら、時には妥協や例外も受け入れるスタンスが必要だと思います。
次回、私の社会人時代の話で私の食生活の歴史は完結です。よかったらまた読んでいただけると嬉しいです。