私の実家は母が物を捨てられず片づけも全くできない人でした。常に雑多なもので溢れかえり、どこに何があるのか母も把握できないような状態。
家が持つ性格とは
生活感と物でいっぱいの家だけど居心地サイコーでした、っていうことを先日書きました。
同じ”物が溢れる””断捨離できない”でも、私の実家と友達の実家では決定的に違っていることがありました。
それはその家が放つ”気”です。
私はあまりそういうスピリチュアル的な事って信じていないというか気にしないのですが、住む人によって家の持つ性格というかオーラは間違いなく変わると最近思うようになりました。
先日遊びに行った家の”気”が光とするなら、私の実家の家が放っていた”気”は闇そのもの。受ける印象が全く違っていました。
今思えば、家全体が病気だったんでしょうね。その筋の人が見たらきっと「ああこの家は呪われていますね」と言っただろうなと思うほど、空気は澱み、陰気で暗くて風通しが悪くて。
当然、友達が遊びに来たことは一度もありません。呼べるような雰囲気ではありませんでしたから。親戚も同様です。固く閉ざされた誰も来ない家。呼吸のできていない息の詰まる家。
家はその家に住む人そのものを表していると思います。入った瞬間に歓迎されているのか拒絶されているのか空気で分かるときがあります。
家が光を吸い込むか、闇を吸い込むかは、その家に住む人の思いが大きく関わってくるのではないでしょうか。
どんなに立派な家でも。住む人が闇を抱えていると、家はその闇に覆われやがて増幅し、その闇にまた住む人は取り込まれ、闇はより濃く深くなっていきます。
どんなに物であふれている家でも。住む人が明るい光を放っていれば、家は軽く、風通しもよく、自然と人が集まる光の源のような場所になります。
家の性格は住む人によって変わる。そんなことを最近思うようになりました。
ナニコレ?炊く前の炊き込みご飯。具材入れすぎ!
閉ざされた家と開放的な家
これはどちらがいいとか悪いとかの話ではありません。頻繁な来訪者を好まない普通の方々も多くいるのも知っています。
人がたくさん集まる実家で育った友達はというと。友達もまた家に人を呼ぶのが大好きだそうで。身構えることなく人の来訪を受け入れられる感じが自然で素敵だなと思います。なんというか無理してないというか。
私はというと。正直あまり人を呼ぶのは好きではありません。”人が家に来る”というのはちょっとしたイベントであり、少し非日常でもあり。やはりどこか身構えてしまうのです。
なので友達が来ると楽しいんだけれども、帰った後はどっと疲れます。もっと自然に受け入れればいいんですが、こればかりは自然と自然にはできませんので仕方ありません。
じゃあ誰も呼ばなきゃいいんじゃないかというと。一人だったらそうしてると思います。基本は自分を曲げてまで子どもに合わせることはしない主義です。
でも。子供は人が大好き。私と全く真逆なのです。誰かが家に遊びに来たり泊りに来るのが大好き。
だから私は少し無理をすることに決めたのです。期間限定で。子供が大きくなるまで。私にできる範囲の無理を。
誰彼かまわず家に招き入れるようなことはできないけれど、仲良しで気心が知れていて散らかっていてもさらけだせるような数少ない友達に遊びに来てもらう。
結局、結構な頻度で遊びにきてますがだいたいいつも同じ友達。ごくたまに新しい人達。 これが私のギリギリ無理のできる範囲の開放。
3人家族とか4人家族とか、親戚が多いとか・・・ならそんな無理はしなかったかもしれません。でもうちは2人暮らし。2人でいいときもあればそうじゃない方がいいときもある。
私と子供は別の人間。だからこそたまには自分のスタイルを曲げて、違う風を通すこともまた必要なのかなと感じています。
私が閉ざしがちな家を子供が開放する、といった感覚でしょうか。これもまたバランスですね。