風のある暮らし

東京から見知らぬ田舎へ。更年期の母ひとり、思春期の子ひとり(中学男子)の暮らし。

心を病んだ母との確執。中学・高校は暗黒の時代でした(2)

スポンサーリンク

私の父は超学歴主義です。学歴のない人間は”クズ”とみなすような人で、交流があるのも高学歴の人達ばかりでした。母は父に完全に感化されつくしていたので、母も同様の考えでした。そうなると、〇〇家の人間たるもの、当然”大卒”という肩書は必須となるのです。

 

計算高い女子高生の私 

今思うと、よく不良(古い?)にもならず、家出することもなくあの家で高校卒業するまで過ごしたもんだなぁと思います。

 

そもそも地元が田舎で、今のようにコンビニや満喫といった24時間オープンのお店も一切ありませんでしたしね。徘徊できるような夜の街が存在しなかったことも大きかったと思います。皆知った顔ですし・・・。

 

それと、私はなんだかんだ計算高かった。ということが一番の理由だったと思います。不良になることや家出は、自分になんのメリットももたらさないと分かっていました。両親のせいで自分の人生を棒にふるなんてアホらしいと思っていたのです。

 

私の目的は、両親を困らせることではなく、両親から遠く離れて自由に生きること。自分だけの人生を自分のために生きること。

 

地元を離れるのに父が出した条件。それは、”4年制大学合格”でした。当初、私は専門学校を希望していましたが、それでは条件クリアならず。

 

父の条件など無視して、着のみ着のまま無一文で町を出るという選択肢もあったけれど、私はそうはしませんでした。

 

所詮は世間知らずの田舎娘。高卒で知らない土地で自分ひとりの力だけでやっていけるほど世の中甘くないと分かっていました。

 

自分に何の力もない状態でやみくもに逃避しても、結局は苦労するだけで、その選択もまた私にとってはアホらしいことに思えたのです。

 

両親から完全に離れるためには、まず自分に力をつけなければいけない。自分ひとりで生きていく力。そのためには4年生大学の学費なら出すという父の力を利用しようと思ったのです。

 

私の成績

私の成績は、地元以外の大学進学などできるようなものではありませんでした。高校は一応は地元の進学校でしたが、田舎ですから生徒もピンキリです。私の成績はというと、500人中だいたいいつも250番~300番。

 

姉も同じ高校の卒業生でしたが、”特待クラス”という超エリートクラスの選ばれし住人だったので、同じ高校とはもはや呼べないレベルの成績でした。

 

そんなわけで、両親にとっては私の成績は”ありえない”成績であり、私はずっと”クズ人間”扱いでした。

 

高校生になると父の私に対する攻撃も沈静化しましたが、代わりに私を無視するようになりました。クズとは話したくない、ということだったのでしょうか。

 

いつ攻撃されるかとビクビクせずにすむので、むしろ私は嬉しかったですが。無視という平穏な日々がずっと続くことを願っていました。

 

母は前の記事にも書きましたが、相変わらずの状態で何も好転せず。私と姉の成績を比べて私を罵倒することが母の生きがいのようになっていました。

 

      f:id:aokamizu:20180416234307j:plain

         カップがないのでうちはいつもホールでドデカ蒸しパン。

 

高校2年生でスイッチオン

こんなクズが大学行けるわけないだろうと、どうせ地元で就職するだろうと、父も母も予想もしていなかった私の大学受験。

 

でも。父から出された条件と今後の自分の人生を考えた結果、私の答えはすぐに出ました。

 

家からよりよい条件で離れるため、自分ひとりで生きていける力をつけるため、私はなにがなんでも受験して、大学進学を目指すことにしたのです。

 

父のお金で大学へ行き、そして私から両親を捨てる。これが唯一、私が幸せになる道だと思いました。

 

今後の自分の人生が幸となるかは大学受験に賭かっている、といっても過言ではないくらいの並々ならぬ決意でした。

 

 

やっぱり終わらなかった・・・続きます。

aokamizu.hatenablog.com