風のある暮らし

東京から見知らぬ田舎へ。更年期の母ひとり、思春期の子ひとり(中学男子)の暮らし。

両親のこと

『となりの少年少女A理不尽な殺意の真相』を読んで自分と重ね合わせた1つの事件(2)

自分の親に殺されると本気で思ったことが私にはあります。今思えば、地位も名誉もある父が実際にはそこまでするはずもなかったでしょう。でも中学生だった私にとって父はそういう存在だったのです。

『となりの少年少女A理不尽な殺意の真相』を読んで自分と重ね合わせた1つの事件(1)

図書館でふと目にした『となりの少年少女A: 理不尽な殺意の真相』という世間を震撼させた少年犯罪事件を検証した本を借りて読んでみました。

10代で指摘されてた家庭運のなさ。父との絶縁は既定路線(番外編)

家庭運がないことは散々指摘されてきたことなので、まあいろいろ納得の展開です。

10代で指摘されてた家庭運のなさ。父との絶縁は既定路線(2)

連絡のとれない父へとうとうメールをしました。

10代で指摘されてた家庭運のなさ。父との絶縁は既定路線(1)

父と最後に会ったのは子供の春休み。そのときの言い争いから会ってもいないし連絡もとっていません。今はもうスッキリした気分です。

自分の両親のなれそめ。父は大恋愛と語り母は嫌々だったと語る。

自分の両親のなれそめって気になりますよね?私の場合は、「なんであんな人と結婚したの?」「一体どこがよかったの?」と全く理解できなかったからこそものすごく気になりました。

子供の記憶はあなどれない。恐怖体験を鮮明に覚えている理由

子供の頃の記憶は、私の場合は2歳くらいからのことを断片的に覚えていたりしますが、ものすごくはっきり覚えていることがあります。

人として大切なものが欠如している父は性格ではなく脳の問題なのでは?

父との今回の成り行きを振り返って、前から父に対してあった疑惑がさらに色濃くなりました。 実は、父はある種の精神疾患を持っているのではと疑ってはいます。

父に着信拒否されてる?もう歩み寄りとかどうでもよくなってきました

父と全く連絡がとれなくなりました。父に何かがあったわけではないと思います。なぜなら、父は父の妹と毎朝お互いの安否確認のために必ず電話しあってるからです。妹さんが父と連絡がとれなければ私に連絡がくるでしょう。でもきてないので父は妹さんとは連…

物が溢れて断捨離とは無縁だった実家。友人宅との違いは何?

私の実家は母が物を捨てられず片づけも全くできない人でした。常に雑多なもので溢れかえり、どこに何があるのか母も把握できないような状態。

心を病んだ母との確執。中学・高校は暗黒の時代でした(5)

現実は予想以上に厳しかった大学受験。受験失敗という文字が頭の中でぐるぐる回ります。けれど、失敗したその先のことは考えられるような精神状態にはありませんでした。

心を病んだ母との確執。中学・高校は暗黒の時代でした(4)

両親が全て決めた大学を言う通りに受験した私。滑り止めとして受験した聞いたこともない女子大に合格したときに、彼らの言動にはもう慣れていたはずの私でも驚くような言葉を聞かされます。

心を病んだ母との確執。中学・高校は暗黒の時代でした(3)

大学受験を決めた高2の夏。塾も家庭教師もいない、完全独学スタイルです。スタートも遅ければ、攻略もままならず。でも、”この家を絶対出ていく”というやる気だけはみなぎっていました。

心を病んだ母との確執。中学・高校は暗黒の時代でした(2)

私の父は超学歴主義です。学歴のない人間は”クズ”とみなすような人で、交流があるのも高学歴の人達ばかりでした。母は父に完全に感化されつくしていたので、母も同様の考えでした。そうなると、〇〇家の人間たるもの、当然”大卒”という肩書は必須となるので…

心を病んだ母との確執。中学・高校は暗黒の時代でした(1)

中学・高校のときも、家族でのいい思い出はひとつもありません。家で笑ったこともないですし、自発的に言葉を発することもありませんでした。常に”無”でした。表向きは反抗期と同じようで、実際は全く違う種類のものだったと思います。

心を病んだ母との確執。小学生の私は心のよりどころを失う(2)

私が小さい頃は優しくて大好きだった母が、父と曾祖母の攻撃でだんだんと心を病み、まるで別人になってしまったというお話の続きです。

心を病んだ母との確執。小学生の私は心のよりどころを失う(1)

私が小学生になる少し前から、母の心は少しずつ壊れていきました。今では母が病んでいたんだと理解できますが、その当時の私は、別人のようになっていく母を受け入れることができませんでした。

家は監獄。子供時代の私と姉の一番楽しかった予想外の思い出とは

私と姉が社会人になってから、母はそれぞれに同じ質問をしたら、まさかの同じ答えが返ってきてショックだったそうです。

会ったことのない私の祖父母。負の連鎖を私の代でたちきりたい

私には、父方の祖父母も母方の祖父母もいませんでした。なので、私は今まで一度も『おじいちゃん』『おばあちゃん』と呼んだことも甘えたこともありません。おじいちゃんとおばあちゃんは、私の憧れの存在だったのです。

何度も裏切られたのに期待した自分。愚かなのかおめでたいのか

私はすっかり過去のこととは折り合いをつけれていると自分では思っていました。でも今回の父との言い合いのことで、あれれ?と思うほど、あっさり自分の防波堤が崩れてしまい自分でも戸惑ってしまいました。

家を2軒持つ父に会った時の食費を割り勘にしてくれと言われる(4)

立派な家を3軒も建てた父から、私と子供の惣菜費1500円をしつこく咎められました。今後は割り勘にしてほしいと言われて納得がいかないという最後のお話です。

家を2軒持つ父に会った時の食費を割り勘にしてくれと言われる(3)

「会った時の食費は出す」と期待させておいて、1500円の惣菜が発端で、急に「お金はない。だからたかるな。」と言われて、父と会う時の食費は私達親子と別にすることになりました。でも一般的に言う”お金がない”とはほど遠い暮らしぶりをしている父。そ…

家を2軒持つ父に会った時の食費を割り勘にしてくれと言われる(2)

私と子供のお惣菜の値段のことをいつまでもしつこく言い続ける父。それでも最初は笑顔でダイニングに入っていった私。でも、この10分後に私の笑顔は消えます。

家を2軒持つ父に会った時の食費を割り勘にしてくれと言われる(1)

春休みには、父に会いに父の別荘に子供と一緒に3泊しました。ここで子供の前で初めて父と言い争う事態になってしまいます。

父のように我が道を行くタイプはきっと長生きすると思う理由

母が亡くなってから7年。一番変わったのは父ではないでしょうか。いろいろ間違っていたにしろ父にとっては最愛の母が亡くなり、精神的におかしくなるとか、どっと老け込むとかを想像していましたが、意外な変貌をとげました。

家族のために玄米中心の食事を作り続けて自分は病気だらけになった母

今日は、私達姉妹も実家から巣立った後の母のお話です。健康的な食生活を送っていたはずの母は、50代前半から次々と色んな病気を患うことになりました。高血圧から始まり、目の病気や指定難病、そして癌にも侵されることとなりました。