風のある暮らし

東京から見知らぬ田舎へ。更年期の母ひとり、思春期の子ひとり(中学男子)の暮らし。

お母さんは子育ても家事も完璧でなくていいという勝手な持論

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子供が保育園年中くらいのころでしょうか。フルタイムでワンオペ育児で離婚裁判中といういろんな意味で泥沼ハードな日々を送っていた時期があります。 

 

 しっかりしたお母さんを目指すのをやめる

そのころの睡眠時間は平均2,3時間といったところでしょうか。もういろいろな場面で限界がきていました。特に子供の保育園のお便りの確認や準備するものや諸々忘れてしまうし手も回らない。

 

「あぁ、もう無理だな」と思ったので、「お話があります」と子供を呼んでお互いに正座をして向き合いました。

 

「お母さんはお仕事をして家のこともしていて、最近とっても忙しくて全部ひとりで家のことをするのはもう無理なんです。だから園のお便りを確認するのも用意しないといけないことも忘れちゃいます。そんなにいっぱい私はひとりでできないんです。だからあなたにもあなたにできることを見つけてやってほしいのです。助けてほしいのです。お願いします。」

 

年中児に、大真面目に真剣にお願いをしました。

 

子供の変化

すると、今まで出し忘れてばかりだったお便りを自らちゃんと渡してくるようになり、園の汚れものも洗濯機へ、翌日の着替えも引き出しから自分で選んでリュックへと、私が何も言わなくても「自分のできること」としてやるようになりました。

 

さらに、特に大事な案件は「とっても大事だから紙に書いて貼っておいてね」とか「手に書いておいてね」とか「お母さんにはわすれんぼうがついちゃってるから思い出すようにしないとね」とか・・・私がよくやっていた忘れない工夫をするよう指示までしてくるように。

 

しつけだけが全てじゃない

「お便りを出さないと自分が困るんだよ!」「私も困るんだからちゃんと出してよ!」と、正論を振りかざしているときは、「はーい」と返事ばかりで全然できなかったのに。保育園の先生の話もボヤ~ンと聞いてて、私には全く伝わってこなかったのに。

 

私がしっかりしたお母さんをやめたら、子供がしっかりしたという逆転現象。しつけとして指示をしても響かなかったのに、「お母さんにだってできないことがある」と真剣に助けを求めたら「このお母さんは僕がしっかりしとかないと」と子供の心に響いたようです。

 

子育てとしてこれがいいのか悪いのかは分かりません。お願いなんてしなくても、親の上手な子育てで何でも自分からできる子もいるでしょう。それでも私はあの時、子供にお願いするしかなかったし、お願いをして良かったと今になっても思います。

 

完璧じゃないから助け合う

このことがきっかけで、「子育てする人」「される人」という関係性ではなくなった気がします。母と子であることに変わりはないのですが、より「個」対「個」の関係になったという感じでしょうか。

 

ちなみに片づけについては真剣にお願いしたことはありません。真剣にお願いしたのはあの1回限りです。何度もお願いしてたら信用もなくしますしね。

 

そもそも「あなたができることを」とお願いしたわけで、それは片づけであってもいいはずですが、やらないということは子供にとって片づけは「できること」「大事なこと」ではなかったということです。

 

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東京にいたころ、壁に貼られていたゴリラと色えんぴつ。いつまでもいつまでもずーっとここにこうしていました。

 

なんでもできる子になってとお願いしたわけでも望んでいるわけでもないのでそれはそれでいいと思っています。だめでしょう!という声も聞こえなくもないですが・・・1週間に1回は自分で掃除機はかけているのでよしということで。

 

私は完璧なお母さんではないし、子供も完璧ではありません。できないこともたくさんあります。それが当たり前だと思っています。だから私も子供のことを助けるし、子供も私のことを助けてくれます。

 

依存しあうのでもなく、お互いがお互いの存在を尊重しあえるような母と子でいたいと思います。