風のある暮らし

東京から見知らぬ田舎へ。更年期の母ひとり、思春期の子ひとり(中学男子)の暮らし。

玄米中心の健康志向な食生活(2)子供の学校給食も敵となる

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年々、健康志向の人が増え続けていますね。マクロビやビーガン、ベジタリアン。色んなスタイルがありますが、そういった食生活を実践しているお子さんは給食はどうしているのでしょうか。

  

私の小学校~中学校時代の給食

私の実家は、その当時には珍しく、徹底した玄米食を実践している家族でした。いや、実践している父に振りまされた家族でした。

 

振り回される記事はこちら⇒ 玄米中心の健康志向な食生活(1)幼少期から続けたら体はどうなる?

 

徹底的にストイックに。一切の妥協も例外もない。

 

ということは、当然、学校給食も例外にはなりません。父は、小学校入学前から学校と交渉し、私は給食を食べないことになりました。

 

お昼はどうしたのかというと、学校から家が近かったので、いちいち食べに帰っていました。お昼のチャイムがなったら家へダッシュして、母と一緒にお昼を食べたらまた学校にとんぼ帰りです。

 

帰っていたのは覚えているのですが、低学年だったので、自分がどういう気持ちだったのかは覚えていません。

 

高学年で引越しをすると、学校から家までが遠く、食べに帰ることができないので、今度はお弁当持参に。

 

当時はまだアレルギーの子も全くおらず、それなりの生徒数がいる中でお弁当は私一人でした。そのことが原因でいじめられたりはしませんでしたが、お昼の時間が私には苦痛でした。

 

クラス全員が給食を食べている中での一人のお弁当。しかも中身は玄米に根菜類に海藻類ばかりのまっ茶色なお弁当。私は学校での給食時間が大嫌いになりました。

 

「少しでもおいしそうに」「少しでもかわいく」などといった工夫は皆無で、どーん!ぐちゃー!どーん!と仕切りもなく玄米と茶色いおかずたちがミックスされたわけのわからない状態でお弁当箱におさまっていました。しかもおいしくない。

 

多感なお年頃だった私の乙女心はズタズタ。いつもふたで中身を隠しながら早わざで食べていました。友達に「見せて~」と言われても、ふたで隠すことを使命とばかりに貫きました。

 

こうやってお弁当持参とふたで隠しながらお弁当を食べる日々は中学卒業まで続きました。

 

私の高校時代のお昼ごはん

学校給食もなく全員がお弁当です。なんと嬉しかったことでしょう!お弁当持参が普通になるなんて!やったー!

 

中学の時までは父による厳格な監視の元でのお弁当だったので、私は手出しできなかったのですが、高校生からは自分でお弁当を作らせてもらえるように。

 

しかも、父には内緒で母がこっそり白米を買ってくれることもあり、こっそり白米を炊いて、こっそりお弁当にもっていくこともありました。

 

その当時は白米にものすごい憧れがあり、白米をお弁当にいれただけで小躍りしてしまう高校生でした。同じお米とは思えない甘みともっちりした食感。玄米にはない魅力だらけの白米に私はすっかり虜になっていました。

 

おかずは相変わらずの内容でしたが、少しでも見栄えよくしようと自分であれこれ工夫をしたので、友達の前でも堂々とお弁当をひろげることができるように。

 

高校生にしてようやく、学校のお昼が楽しいと思える日々を送ることができるようになりました。

 

親に嫌だと言えない子供もいる

私はお弁当が嫌だとは父に言うことができませんでした。

 

子供と親の間に信頼関係ができていれば、子供は「嫌」であることを親に訴えることができます。自分の意見が通るか通らないかは別にして、親が受け止めてくれると分かっていれば子供は自分の気持ちを安心してさらけ出すことができます。

子供と親の間に信頼関係ができていなければ、子供は「嫌」とは決して言い出せないものです。信頼関係がなければないほど、「嫌じゃないの?」と聞かれると「嫌じゃない」と答えてしまったりします。

 

親と信頼関係のない子供ほど、親の顔色をうかがい、親にとってベストであろう答えを無意識のうちに探っているのです。それはもう癖のようなものです。

信頼関係のできている上での「嫌じゃない」と、できてない上での「嫌じゃない」は、自分の子供を普段からよく見ていれば分かるはずです。

 

普段から子供の意見など聞こうともしない親が、急に特例的に子供に意見を求めても、それは子供の意見を聞きたいのではなく、親の考えを強固なものにするための後押しとして子供に聞いているだけだと子供は分かっているので、子供は本当のことなんて言わないものです。

 

本当の問題はお弁当ではない

父は、学校と話しをする前にまず私と話し合うべきでした。給食を食べないことについて、父から私には全く説明がなく、「給食は体に悪いから」と、母を通じて決定事項を告げられるのみでした。

 

どうして給食が悪いのか、何がよくないのか、父はどんなことを思って給食を食べさせないのか、例え相手が子供であっても、私が納得するまで何度でも話すべきだったと思います。

 

そうすれば、私はもっと違う気持ちで学校でお弁当を食べられたんじゃないかと思うのです。

 

よく分からないままクラスの中で自分だけ違うことをしている状態というのは子供にとってとても不安なことです。

 

なぜわざわざ自分だけ違うことをしているのか本人にも分からないんですから、納得いかなくて嫌な気持ちになるだけです。

 

子供なんだから親のやり方に従って当然という考え方はあまりにも勝手です。どうしてもゆずられないことがあるなら、従わせるのではなく子供に納得してもらうために親も努力すべきです。

 

納得いかないままお弁当持参を続けさせられた結果、そのころの私はますます玄米食が嫌いになりました。 強制すると、結局は逆効果になるということです。

 

もし一人だけお弁当なら

やはりここはできるだけビジュアルを頑張ってほしかったと思ってしまいます。

 

今のマクロビ食などは、色彩豊かでセンスがよくて工夫もされていて、とてもおいしそうに見えますが、当時の母にはそんな余裕はなく作ることで精一杯だったんだと今なら理解できますが、それでも、それにしてもあの見た目は・・

 

ただでさえ手間ばかりかかる玄米食にプラス父と姉と私のお弁当で、母もブチ切れ寸前だったのかもしれません。そりゃ大変ですよね。

 

これもまた、母が納得して玄米食を作っていたなら、もっと違ったんじゃないのかなと思います。

 

ひとりよがりの食生活では誰も幸せになれない

家族にとって食事は一人一人をつなげる大事な共同作業になります。それぞれの思いがバラバラだと、本当の意味での食事として成り立ちません。

 

一方的なおしつけや強制の上での食事では、健康にはなりえないからです。どんなに素晴らしい食事内容でも、家族の気持ちがバラバラだと栄養どころの話ではありません。

 

一緒に食事をする家族の気持ちがつながっていてこそ、初めてその食事内容が生きてくるのです。

 

食があって家族がいるのではなく、家族がいて食があるのです。

 

 

次回は私の大学時代の話をしたいと思います。よかったらまた読んでいただけると嬉しいです。

 

 

aokamizu.hatenablog.com